バリ人は海から来た!          

多くの人々が、バリ人はジャワから来たと思っています。実際バリ人は太平洋
中部および南部の諸島の民族でした。今までの貿易関係により、彼らは中国
の硬貨の中身をくりぬいた、ケペン硬貨を使用していました。体格がよく、色黒
な女性の顔つきは中国人に似ている事から、バリ人は働き者で、アフリカの東
にあるマダガスカル島から台湾にわたる広範囲で漁をしていた事を証明してい
ます。そして、彼らはまた心霊主義者であり、強い戦士でもあります。

バリ島に住んでいた昔の人は、斧やノミや鏨を使っていました。この証拠として
シンガラジャにあるスンビラン村とテンガナン村でこれらが発見されました。
また1935年には、ジャワの東部でも同じ物が発見されました。
これらの斧は、Pleistocene期にTrinilの表面から発見された斧と同一のもの
でした。つまり、バリ島にいた昔の人類は、ピテカントロプスなのです。これは、
北京のチョウコウテン洞窟で発見された農具と比較した後、証明されました。
付け加えれば、その発見されたものは北京原人のものでした。データによれば
この斧は、紀元前より100万年前の物です。

ジャワ島とスマトラ島が、まだスンダという名の1つの本土であった時、人類は
災害によって絶命しました。
バリ島に居住していた人類は、以前はTonkinエリアに住んでいたパプアメラネ
ソイドでした。洞窟の中で発見された農具や、骨、皮、食べ物の残りの痕跡が
あることから、人類が生活していた事を裏付けました。これらは、1961年にバ
ドン県のペチャトゥ村にある小高い石灰石のセロンディング洞窟から発見されま
した。Abrissous Rocheと呼ばれる中石器時代の文化の遺産の証拠です。
インドとインドネシアとその海以外、南方へと広範囲に広がったパプアメラネソイ
ドによりこの事実を証明しています。次の時代は新しい人種で、この人種は農
業によって豊かな生活を得ました。バリ島のパラサキ、ケディリ、バントリアン、
プルカン、クランビタン、パヤンガン、ウブドゥ、ペジェン、サルングルン、サラ、ヌ
サ・ペニダなどの村々でその時代の農具が発見されました。

この時代に使われた言語は、マライ語・ポリネシア語、そして良く知られている
オーストロネシア語と推測されます。オーストロネシア民族がバリに来たのは、
紀元前2000年の事です。このオーストロネシア民族は、金属からネカラ(ケト
ルドラム)、タジャッ(西洋鍬)、ゲラン(ブレスレット)の農具などをお墓への埋納
品としてつくりました。彼らは高度な農業技術と能力を持っていました。その証
拠の1つとしてペナタラン・サシ・ペジェン寺院から大きなネカラ(ケトルドラム)
が発見されました。また、その寺院周辺の地域から硬い石から作られた石棺
が見つかりました。大衆は土葬されていた時代、王家の者だけが石棺の中に
埋葬されていました。人々の生活は組織化され、グループや小さな同盟体が
作られました。これらは、タニまたはドゥサゥン(果樹園)と名づけられました。
バンワという名の大きな地区ができた時、彼らは先祖霊を信じ、お供え物をす
る場所として石の供物台、石像、石の王冠を作ることにより、先祖霊へ崇拝をし
ました。

ジェロまたはジェロ・ガデと呼ばれる共同体の集まりは、人々によってさらに導
かれました。これらの村人たちは、現在バリでアガと呼ばれています。
その共同体とその法律は、村の歴史の創始者としてトゥルニャン村やテンガナ
ン村で守られています。ジャワから来た人々は後にバリ・ムラまたはバリ・アス
リとして知られるようになるエンプ、ルスィ、アルヤという3人の超俗性をもったヒ
ンズー教の僧侶の信奉者でした。先住民であるバリ・アガの人々の社会と外
から来たバリ・ムラの人々の社会には、相違点がありました。その2つの社会
の相違点はそれぞれの葬式の時に見ることができます。バリ・アガでは埋葬式
で、バリ・ムラでは火葬式です。そしてまたスギアン儀式でもその相違点を見つ
けることができます。スギアン・バリ(バリ・アガの儀式、バリ・アガの末裔)では
、ガロガンの日より6日前に行われ、スギアン・ジャワ(バリ・ムラの儀式、ジャ
ワ文化からの末裔)ではガロガンの日から5日前に行われます。バリ・アガは
ワイスナワ宗派を崇拝し、バリ・ムラはブラハマ宗派を崇拝します。この期間、
彼らは先祖をプラナ&ババドゥ(ヒンズーの書物)を、ヒャンドに基づいて崇拝し
ます。アニミズムは、4世紀まで続きました。