インドネシア独立戦争を闘った
バリ島の元日本兵12基の墓

日本が第二次大戦に敗れ、終戦になったのは、1945年8月15日、その翌々日の 17日に、インドネシアが独立した。
スカルノ、ハッタ両民族代表による独立宣言は、 ジャカルタ駐在の同盟通信(現共同通信)が、時を移さず全世界に発信した。
インドネシアの周辺には、連合軍の艦艇が上陸の機を窺っている。ただちに、各地の 青年が決起した。元義勇軍、兵補を主体とするインドネシア独立軍が結成され、オラン ダの再占領に武器をとって立ち向かった。
激しい独立戦争が、5年間、断続してつづいた。 49年、ついにオランダ政府は、全インドネシアの主権を移譲し、女王の首飾りといわれ た香料列島の350年にわたる支配を終えた。
インドネシアは完全に独立し、50年には 国連に加盟している。 成田を経った旅客機は、8時間後、バリ島に着く。
降り立つ飛行場は、Ngurah Rai国際 空港という。この空港名に注目していただきたい。
インドネシア独立軍バリ地区総司令官、 故Ngurah Rai中佐の名をとったもので、バリ島を、そしてインドネシアを死守した英雄た ちを顕彰して名付けられた。空港を出てデンパサールへ行く道の右側には、Ngurah Raiの 銅像が建っている。
右手を高くあげているのは、インドネシアの平和と団結を永遠に指し 示すものであろう。
デンパサールから北へ二十数キロ、、タバナン郡マルガラナ村に英雄記念墓地がある。
ここは、1946年11月20日、大激戦のあった所で、空爆と地上からの集中砲火を浴び、 Ngurai Rai以下独立軍兵士85人、元日本兵7人が玉砕した。
彼らの血で染まった広大な マルガの丘を切り開き、記念墓地として、独立戦争で戦死した島内各地の英雄を祀った。 墓地前は広い庭で、駐車場を兼ね、11月20日の慰霊祭には、各地からの参拝者で埋 め尽くされる。
前庭につづいて小高い煉瓦塀が、バリの寺院風に築かれている。塀の内側 には、Ngurah Raiの墓碑を先頭に
1372柱の墓碑が、青い芝生の上に整然と並んでいる。 その中には、元日本兵の墓碑が12基ある。
それぞれの所属部隊を離脱して、独立軍に参加 した兵士や軍属たちの墓である。
インドネシアをこよなく愛し、自分たちが慈しみ育ててき た義勇軍、兵補が最前線で闘っている、これを見殺しには
できない、やむにやまれぬ思いが 彼らを駆り立てた。
いずれも現地名を名乗っていたが、墓碑には、ジャパンと記され、日本名とともに刻まれ たものもある。上から墓碑番号、故人名、出身地、戦死年月日が、白い大理石に刻まれ、墓 石にはめ込まれている。

墓碑番号
320 I Wayan Sukera (松井久年兵曹長) 1920.1.1. 生 *****
321 I Made Sukeri (荒木武友上曹) 1920.9.1. 生 長崎県南高来郡
339 I Ketut Sunia (海軍軍属 OTATE) BUNG Tjanggu *****
553 I Ketut Mima (美馬芳夫二曹) 1925.1.14 生 *****
483 I Ketut (木村 ?) 陸軍 *****
429 I Gede ***** ****** *****
554 I Mada (中野)陸軍 ****** *****
824 I Wayan Gede Wadya (軍属) ****** *****
221 Bung Ali (梶原)陸軍 ****** *****
300 I Made Putera (高木米治兵曹長) 1919.7.3. 生 宮崎県東臼杵郡
332 Bung Selamat 陸軍曹長 ***** 神戸
1372 氏名不詳無名戦士 (工藤栄 か Sogaか) 1913.9.27.生 *****
今現在身元不明戦士については、調査を続けている。
地上最後の楽園といわれる観光地バリ島には、血塗られたこのような歴史がある。
バリ島に来られたら、ぜひ英雄記念墓碑に詣でていただきたい。とくに、若い人に詣でていただ きたい。
ここに眠る元日本兵は、当時みな二十代の青年であった。インドネシア兵にいたっては、 十代の少年が多い。
会津の白虎隊を連想するが、彼らは、インドネシア独立の大義に若い血を燃 え立たせたのだ。
英雄記念墓地に詣で、その熱い情熱を偲んでいただきたい。    日本バリ会   稲川義郎