| SRIWIJAYA KINGDOM(スリウィジャヤ王朝) |
| 7世紀、スマトラ島にシャイレンドラ王率いるスリウィジャヤ王朝がありました。 彼の先導のもとスリウィジャヤ王朝はマラカとジャワを傘下にし中国とインドの間の中心地としてとても栄えました。そしてインドネシア西部を支配しました。 |
| MATARAM KINGDOM(マタラム王朝) |
| 8世紀に入り、サンジャヤ王によってマタラム王朝が今の中部ジャワにつくられ、732年まで彼の支配は続きました。そのあと王位を受け継いだ2代目の王ラカ
イ・パナンカランは農業にとても興味をもち、また778年にカラサン寺院を建 てました。 マタランの中央政権は中部ジャワに留まらず3代目の王であるエンプ ・センドッの時代に中央政権は東部ジャワに移されました。彼は"スリ・イシャナ・ウィラマ"という称号を自ら与え、今のクディリ町の辺りにダハという中心地を 作りました。 そして1222年までエンプ・センドッの子孫(WANGSA LSYANA, イシャナ家)によって王朝は続きました。 |
| DARMAWANGSA DAN AIRLANGGA (ダルマワンサ王とアイルランガ王) |
| イシャナ家の子孫であるダルマワンサ王が東部ジャワ(マタラム王朝)を統治している間、一方で西部ジャワにはシャイレンドラ王が統治するスリウィジャヤ王朝がありました。この2つの王朝は争いもなく平和にそれぞれの地を統治していましたがダルマワンサ王はこの2つの王朝を1つにしたいという願いをもっていました。 990年にダルマワンサ王は兵をスマトラに送り、とうとうマタラム王朝とスリウィジャヤ王朝の間で大きな戦争が起こりました。その結果、スリウィジャヤ王朝の統治下にあった土地の幾つかはマタラム王朝の統治下になりました。 これで全てが平和に戻ったかに見えましたが、スリウィジャヤ王朝の中ではもう一度戦おうと いう士気が高まりつつありました。 1017年、ダルマワンサ王の娘とアイルランガの盛大な結婚パーティーが開かれている時、突然スリウィジャヤ兵が奇襲攻撃をしかけ、その場所を焼き払いました。 その時にダルマワンサ王は死に、アイルランガとその家来は森の中に姿を隠しました。スリウィジャヤ兵が去った後、アイルランガは人々からダルマワンサ王の地位を受け継ぐよう求められ、彼の統治下のもとマタラム王朝は平和な日々を取り戻しました。しかし最終的に、この王朝は西のダハと東のジェンガラ/クデリに分かれてしまい、アイルランガ王は位を捨て瞑想者として森に姿を隠し1049年に亡くなりました。 |
| KEDIRI AND THE ESTABLISHEMENT OF SINGASARI (クデリとシンガサリ王朝の建設) |
| アイルランガによって分けられていた2つの王朝はケディリという名で知られている王朝にもう1度統一されます。農家出身のケン・アロはその王になるための考えがあったのです。最初彼はトゥマペルの召使になり彼を殺し、そして名前をケン・デデスというトゥマペルの妻と結婚してしまいます。1222年、彼はケディリを攻撃しアイルランガの息子であったケルタジャヤを殺し王になりました。 そして彼はケディリとトゥマペルを統一しシンガサリという名の王朝を築きます。 1247年、アヌソパティによってケン・アロが殺されてのち、ウィスニュワルダナ別名ケルタネガラがケディリの王になりました。 |
| SINGASARI UNDER THE KING KERTANEGARA (最後の王であるケルタネガラのシンガサリ王朝) |
| シンガサリ王朝最後の王であるケルタネガラはインドネシアを統一する考えを持っていました。しかし同じ時期、中国はクビライ・ハンの統治下で、彼は戦好きでシンガサリを攻め落としたいと思っていました。 1289年、クビライ・ハンはケルタネガラに傘下に入るよう伝えますが、断られてしまい直ぐにシンガサリを攻め落とすかケルタネガラを殺すよう兵に命令しました。しかしケルタネガラの方も以前からこの様な日のために戦いの準備をしており、1292年、ケルタネガラの兵は海上でクビライ・ハンの兵を攻撃するためトゥバン港を出発しました。戦いの途中ケルタネガラの兵が宗教上の儀式のため港に戻ってきますが、突然ケディリ王朝からジャヤカトワンがシンガサリを攻め落としてしまいます。 この戦いにより、ケルタネガラは死に、戦いは名前をウィジャヤというケン・アロの子孫によって続けられました。しかしウィジャヤはジャヤカトワンと戦うことを恐れマドゥラへ逃げてしまいます。後にウィジャヤは自分の権力が戻ってきたのを機に、彼は東部ジャワに戻りマジャパイ村に権力を集中させました。 ウィジャヤはクビライ・ハンと協力してケディリをせめジャヤカトワンを殺しますが、その後直ぐにウィジャヤはクビライ・ハンを裏切り彼を攻撃しました。 これによりケディリ王朝とシンガサリ王朝は滅び、変わってウィジャヤは1293年にケルタラジャサという自らの称号とマジャパヒト王朝を築きました。 |
| GROWTH OF MAJAPAHIT KINGDOM(マジャパヒト王朝の興隆) |
| 初期のマジャパイ王朝はブランタス川の周辺だけを統治する小さな王朝でしたが後に東部ジャワに勢力を広げました。 ケルタラジャサが王になってから、彼は2人の女性と結婚しました。1人はダラペタでもう1人はケルタネガラの娘であったガヤトゥリです。そしてカラゲミという名の息子とトゥリブワナという名の娘、2人の子供を持ちました。 1309年に、ケルタラジャサ王が死去し、その王位をジャヤネガラと言う称号と共に息子であったカラゲミが受け継ぎました。 1319年クティによる攻撃を受けましたが、ガジャ・マダによって王は助けられまたその場所に戻ることができました。 1328年にジャヤネガラは死に、変わってもう一人の娘であったトゥリブワナがマジャパイ王朝のクイーンとして王位を受け継ぎました。 |
| MAJAPAHIT UNDER TRIBUWANA (トゥリブワナ王妃のマジャパイ王朝) |
| トゥリブワナ王妃のもとマジャパイ王朝はより大きく、豊かな国になりました。 彼女はケルタワルダナと結婚しました。実際、マジャパヒト王朝を影で支えていたのはガジャ・マダでした。 ガジャ・マダはケルタネガラの夢であったインドネシアを一つの国にしたいという考えを持っていました。 彼はマジャパヒトとバリ、カリマンタン、ヌサ・テンガラ、スラウェシ、マルク、スマトラ、マラカを一つにしたいという思いを今すぐに実行したいと考えていました。 1350年トゥリブワナとケルタワルダナは彼らの息子であるハヤン・ウルに王朝を譲り息子はラジャサネガラという称号と共に王位につきました。 ラジャサネガラ王の時代にマジャパイ王朝の力は頂点に達し、パスンダンにあるパジャジャラン王朝を除く全てのインドネシアはマジャパヒト王朝の統治下にありました。 パジ ャジャラン王朝を統治下にするため、ガジャ・マダはラジャサネガラ王の后にパスンダンからの女性を選びました。 1364年、3人の王のもとで(ジャヤネガラ、トゥリブワナ、ハヤン・ウル)王朝を支えてきたガジャ・マダが死にました。 彼はインドネシアの偉大なる人でした。1369年、ラジャサネガラ王が死に、 変わりに彼の娘であったクスマワルダニが王妃になりました。 1401年、マジャパヒト王朝の力が弱まったのを機に、ペラン・パレレという大きな戦争が起こりました。結局、ウィジャヤによって創られ、ガジャ・マダによって大きく発展してき たマジャパイ王朝は1520年に崩れ去りました。 |