バリの父と呼ばれた三浦 襄翁をご存じでしょうか?




三浦 襄翁、墓地修復前
修復後
記念碑完成
三浦氏4

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三浦氏1 三浦氏2 三浦氏3
<三浦 襄翁をご存じでしょうか?>
明治初期(1888年頃) 宮城県仙台にて生まれた三浦氏は、日本人未踏の島、ヒンズー教を崇拝し、伝統文化を尊重し続けるバリ島に新天地を求め移り住みました。
謙虚で誠実で人情に篤いその人柄は、人々の間に敬愛と信頼を集めました。  
昭和6年の秋、東亜の戦風がバリ島の空を霞み始め、翌年、堀内豊秋大佐の指揮 する落下傘部隊がメナドに進駐した頃(1942.01.11)、引揚船にて帰 国していた氏は、バリ島攻略部隊の道案内兼通訳として再びバリの地を踏む事となった。
日本軍は右も左も分からぬこの地でずいぶんと無理無体をしていた。
苦情や不満の声が殺到したのは言うまでもないが、この声に一つ一つ答えようと した三浦氏が、バパ・バリ(バリの親)という最大の敬愛をあらわす呼び名で呼ばれるようになったのはこの時期からです。  
軍の要請により缶詰加工工場を新設し、その代表に氏が選ばれた。一般業務の運 営、経理を一切現地人に委ね、貧しい人達を集め、工場から出る牛の骨で歯ブラ シを作り海軍軍需部に納めていた。表面的には三浦商会としていたが、代金はそ のまま現地人に支払われ、氏は一文も受け取らなかった。  
また、氏には戦争によって日本人とバリ女性の夫婦が離ればなれになり、子供を 抱え困っている母親を見て、引き取った子が10人以上いた。1ヶ月日本円にして200円の収入でしたが、この金額で10人以上の子を育てるは容易ではなかったはずです。

 「インドネシアに独立を許容する。」(昭和19年)この事こそがインドネシア の人々の願いだったのです。独立準備のさなか健康を害して帰国していた氏がひょっこりと帰ってきた。もう戻ってこないのではという不安を抱いていた人々の感銘はそれはすごいものでした。日本人が約束を守る民族であることを証明したのです。  
スカルノ氏(初代大統領)による精力的な独立活動が進められ、氏も小スンダ建 国同志会の事務総長を務め忙しい日々を送っていました。  
インドネシア全土が独立に向けて意気揚々としてた昭和20年8月15日氏の元 に一報が届いた。「終戦」である。「たとえ自分自身の身がどうなろうと、国民の苦難をこれ以上見るに忍びない」という昭和天皇のお言葉であった。
氏の苦痛と衝撃は痛々しい程に面ざしに現れていた。しかし、精神的にあくまで インドネシア独立を指示し、この地を愛し人々を愛するがゆえに全日本人に代わ ってネシアの夜明けを見届ける決心であることを、熱情を傾けて説き納得を求め た。そして、氏はデンパサールの劇場で600人余りの住民の前で最後の思い・祈りを声にのせ語った。彼の答えは、「自決して骨をバリに埋めインドネシアの独立の人柱となって、人々の真の独立達成を見守るつもりである」という事だっ た。

 昭和20年9月7日それは「インドネシアの独立が許容されるはずだった日」である。一発の銃声がまだ明けきらない朝もやの中に轟いた。20代で海外に渡り50年余りインドネシア・バリ島の発展のために全精力を尽くした三浦襄の神々しいまでに潔い最期であった。  
葬儀は8人のラジャ(王)、16人のプダンダ(ヒンズー教の僧正)など数百人が訪れ棺は街の中を北進した。店にも家々にも、紅白のインドネシア国旗が「単独」にかかげる事が認められたのが9月7日、それは奇しくもバパ・バリの死を悼むインドネシア住民の弔旗と変わったのである。  

焼き付くような灼熱の街を、かつてこれ程盛大な、しかも厳粛な葬送を、いかなる大官がバリで受けたであろうか。そして将来においても受けることがあるだろうか。  

それから、約半世紀を迎えた今日、バリ島は”神々の住む島””地上最後の楽園”等と賛辞を贈られていますが、「バリの歴史」現在の伝統文化の築き上げられてきた過程に、一人の日本人が、遠く離れたバリの地で小さな身体を大きく大きく広げて生きていたことを、私達は同じ国民としてまた、人間として誇りに思い、氏の生き様を後生の人々にお伝えする事も私共の使命と思いここ にご案内する次第でございます。

今も翁は、デンパサール市のはずれの住民墓地のひときわ大きな老木のとなりに 静かに眠り、いついつまでも、氏の魂は人々の中に生き続けていきます。

 どうか、時間が許せばぜひお参りいただきたくお願い申し上げます。
                           合 掌 
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